教育理念
“教育は、私たちに、抽象的な概念を俯瞰して見る力をもたらす。
そして、その輪郭を理解することで、私たちは抽象の先の議論へ進んでいくことができるのだ。”
そして、その輪郭を理解することで、私たちは抽象の先の議論へ進んでいくことができるのだ。”
私は日本の高等教育に携わっていく中で、アイデンティティやジェンダー、人種、差異、排除、排斥などを授業でとりあげることがあります。これらの概念について様々な観点から生徒と議論をしていますが、毎回のように、人種の問題は日本は関係ない、アイデンティティの概念は抽象的で理解しづらいし、難しい、と感じている生徒がいます。それを聞くと、不思議な感覚を覚えます。アイデンティティについていうと、私たちは毎日、自身のアイデンティティを生きて向き合っているにも関わらず、これを、抽象的だから理解しづらいと片付けてしまっていいのでしょうか?
私自身、アイデンティティという言葉にはじめて出会ったときには、興味をかきたてられました。私は誰なのか?日本に相当長く住んでいるのだから私はもう日本人なのかもしれない?日本人であるってどういうことなのか?私の存在はだれがどうやって決めるのか?おそらく、これらの質問に対して決まった回答はないでしょう。しかし、これらが抽象的な質問ではないことは確かです。 「私は日本人です」について 日々の中で、自分自身のあり方やその向き合い方を知るためには、私たちの理解の範疇にある“アイデンティティ”という概念を一度切り離し、他の人がアイデンティティについてどのように理解しているのかを知る必要があります。 |
「私は日本人です」という言葉が持つ意味は、それが他の人にとってどういう意味かを理解しようとすることでより明瞭に、そして、多義的になります。例えば、それはインド的な容姿を持つ日本人に対しては全く違った意味になるでしょう。また、「私は日本人です」という言葉は、その人がこれまでに抱えてきた「自分は何者か」という葛藤そのものを意味するかもしれません。
しかし、この言葉の持つ多義性や複雑さに気づくことができたなら、私たちは周りにいる多様なアイデンティティを持つ人々の葛藤にも想像力を持って接することができることでしょう。そして「私は日本人です」という裏にある様々な人のストーリーを聞き、理解していくことは日本人というアイデンティティを多様な価値観によって更新していくことを可能にします。また、日本人や他の国籍であること、どこかの国や地域に属することの本質的な意味を考えることにつながります。 いまは、「私は日本人です」という単純な意味を超えてこの言葉について考えるべきときです。他の人のストーリーを知ることは、いわゆる抽象といわれる”概念”を俯瞰してみて、その先へ進むための方法であるのです。 |
Contact
|